ブローハン聡

〈プロフィール〉
1992年生まれ 東京都出身
フィリピンとスペインと日本のハーフ

〈これまでの活動〉
フリーでタレント、モデル、弾き語り配信、児童養護施設出身者としての講演活動。
ジュノンボーイコンテストや東京ボーイズコレクションに出場。

主な出演番組
児童養護出身者としてTBS「newsな二人」
文化放送「大竹まこと ゴールデンラジオ!」
タレントとして恋愛リアリティ番組「ラブポーカー」
スピーチコンテスト「カナエール」

 
当事者活動
「OurVoiceOurTurnJapan」「waccaプロジェクト」の活動を通して、当事者と支援者で手を組んで児童社会福祉の問題を解決し、より良い子どもたちが生きやすい社会を目指しています。
西はヒッチハイクで周り、成人を迎えた次の週に真冬の東北を車で走り日本一周を体験し、ピラミッド前のケンタッキーに行きたいと思い海外バックパッカーをしていました!
子ども時代の生い立ちの経験や、多様な生き方を描いたライフスタイルを追っています。
私自身のライフストーリーを、声をだし発信し続けています。

 
〈過去の痛み〉
私の実父は元々家族があり、私はその非嫡出子として生まれました。
認知されず無国籍の苗字がない状態で、(当時は)知らない誰かの苗字を付けられました。4歳の頃新しいお父さんができましたが養子としては迎えてくれず、身体的、精神的虐待の日々が始まりました。虐待から逃れるために母の知り合いの家を転々とし、小学校の頃は転校を繰り返し、誰もいない家に3日間放置され「孤独」感や空腹に襲われたり、違う場所で外国人に性的虐待をされたり、また家に戻されては命を脅かされる虐待をされ続けました。
11歳の頃にライターで耳やお尻を炙られ、その火傷が原因で椅子に不自然に座っているのを不信に思った学校の先生が虐待に気づき、児童相談所の一時保護所で3か月過ごした後、児童養護施設に移動しました。
14歳の時に唯一この世で愛していた母は旅立ちました。
痛みを痛みと感じないために、虐待されている時も何か辛いことがあっても、イタイを麻痺させて意識を外へ外へ押しのけて、自分を上からのぞく事でそうして保っていた「心」が崩壊する音を感じました。


痛くて痛くてたまらなくて「なんで自分だけ」。

生き続ける事がこんなに過酷でしんどいなんて。


そんな時TVでの1枚の写真との出会いで衝撃が走り、繰り返すことのないただ一度のこの経験に、人生が、そして世界が激変しました。
今まで学校や地域や児童養護施設の関わりだけの狭い世界で自分と他人を比較していました。けれど世界中では難民、児童労働、人身売買、紛争などが、いまこの瞬間にも地球のどこかで行われている。同じ地球に住んでいるのにこんなにも差があって、自分がこんなにも恵まれている環境にいたことに初めて気づきました。
私の見た1枚の写真は、紛争地域において飢餓に苛まれ生死と隣り合わせでうずくまっている少女の後ろで、ただ少女の死を待つハゲワシ(※)。
地球の反対側にいる児童養護施設にいた自分は、食べる物も寝る場所もあり、勉強出来る環境があり希望がありました。僕が絶望して捨てようとしていた命は誰かが望んでいた希望の命だったのです。

〈母が残した無言の最大のメッセージ〉
14歳までに経験した事がこの日を境に集約され全てに意味をもたらしてくれました。
父がいてくれたから産まれて家族の大事さを知り、義父が虐待してくれたお陰で人の痛みや人の想いを敏感に感じ、母がいつも守ってくれていたから優しさや愛しいっていう気持ちを知りました。
今までどれだけの人間が関わって命を繋げてくれたのだろう。
自分が置かれている全ての環境に感謝をしました。

 
生きたい、生き続けたい。

 
僕はこれから2人のお父さんに生きている間にありがとうって言いたいし、天国にいるママに産んでくれてありがとう、ママの子で良かったよって言えるくらい、生きてきた事に誇りをもって報告できるように生きていこうって思っています。

〈これから〉
SOSを出せない多くの子がこういった過去からくる見えない背景があり、言葉にならない心やコトバを色々な“声”を通して伝えてきます。
自分が生まれてきた意味や生きる意味を探しているそんな人たちに、自分がたった一枚の写真との出会いで人生が変わったように、たった一つのきっかけで考え方が変わるように、僕と出会ってくれた人がいつかどこかで変わる「きっかけ」として、その「一歩」を踏み出すのを応援できる大人であり続けたいです。

 

(※)1994年にピューリッツァー賞を受賞した、写真家ケビン・カーター氏の「ハゲワシと少女」